2011年9月22日 こういう意味だったのか~。

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初夏に大往生した祖母の葬儀や法事で
和尚さんから渡された小冊子を見ながら、
何度か唱えた般若心経。
歯医者の待合室にあった雑誌に、ニーチェの訳などで知られる
白鳥春彦さんの般若心経の超訳が
掲載されていた。
そういえば、最近若者向けにロック調で
訳されていたニュースがあったっけ。
なるほど~と思い、訳の抜粋を。
日経大人のOFF7月号から~
=般若心経 : 超訳=ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
人よ、何を見ているのか。
おまえの眼には、
いったい何が映っているのか。
眼の玉が見たものに脅え、驚き、戦き、
心を騒がせているのか。
それほどのものが見えているとでもいうのか。
人よ、かつてのおまえは今ほど臆病ではなかった。
ふくよかで暖かい胸に抱かれていたとき、
乳房のたおやかな峰の向こうに見えていた世界は
美しく輝いていたではないか。
おまえは少しの怖れもなく、
世界に向かってほほえんでいたではないか。
あの美しき日々は
いつ遠ざかってしまったのか。
唇に与えられたものすべてが美味だった日々は
どこへ消えてしまったのか。
かぐわしき花々のゆらめき、
甘い息の漂い、
清らかな風の流れはいつ色褪せたのか。
小さな手が
まだ何も掴めなかったあの頃、
おまえの眠りは死だった。
そして朝に新しく生まれ、
人生の一日がゆったりと流れ、
また夜が来て、
おまえは死んだように眠っていた。
再び朝に生まれ、
あらゆる経験におまえの胸は歓喜していたというのに。
今のお前はどうだ。
数え切れない悩みを抱いている。
何も正視できず、震えながら眼をそむけている。
多くの怖れ、多くの不安、後悔。
おまえの人生は苦しみに満ちている。
しかし、もう眼をつむるな。
金輪際、顔をそむけるな。
しかと視よ。何がそこにあるか、しっかりと視よ。
何が自分に見えているか、
はっきりと見えるまで見つめ続けよ。
そこに見えているのは人間か。
そこにあるのは物か。
おまえの眼に映るものは何か。
見えているものが
人であろうが物であろうが、
さらによく見つめよ。
それがつまらなく感じられるまで。
他の瑣末なものと
見分けがつかなくなるほどに見つめよ。
それが人か物か
わからなくなるまで見つめよ。
さあ、どうだ。
何か起きたか。
何も起きない。
心が動いたか。
いや、
心はかえって静かになり、
今では心すら無い状態だ。
見えているものは何か。
人であろうが物であろうが、
そこにあるものは
大きくも小さくもない。
強くもない。
ただ、
それはそこにあるものでしかない。
あたかも、そこにあるかのように
自分の目に映るものでしかない。
だのに、
なぜ今までそれをおまえは怖れていたのか。
利害からか。妄想からか。
憎しみからか。愛着からか。
思い出からか。想像からか。
金の有無からか。
それをも見つめよ。
自分の心を、
まるで過去の汚れた遺物を
調査するかのように見つめよ。
逃げずに見つめよ。
見つめれば、もう静かにわかるはずだ。
本当は何もなかったということが。
見えるものと自分の心を勝手につなげて
気持ちをいたずらに動かしていたということを。
自分が損得や勝ち負けにこだわっていたから
焦りや感情に縛られていたということを。
見えるものすべてを
自分のくだらない自尊心の物差しではかっては
勝手に評価や判断をしていたということを。
すべてを自分のものだと思い込む
利欲の根性に染まっていたということを。
つまるところ、
自分が卑しかったということを。
だから、そういう自分のすべてを捨てろ。
気持ちまでも捨てろ。
そうして、
自分というものの
いっさいがっさいを捨て去れ。
ただ、命だけは残しておけ。
すると、
おまえはいまだかつて知らなかった
自由の空に飛ぶことができる。
何をすることもできる。
不可能なことは一つだにない。
すべては可能だ。できないことはない。
ただ、
悪をなせば、
昔の濁った自分がたちまちにして戻ってくる。
まずは悪でないこと、
人が必要としていることを自分でなせ。
人のために、善のために、自分を使え。
それこそが大いなる自由の空を飛ぶことだ。
そのとき、
世界は一変する。
いっさいが澄んだ静けさの中で変わる。
いっさいが静かな歓喜に満たされる。
おまえは初めて、人になる。

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