熊の子守り歌を聴きながら(怖かったけどね)
山中でテント泊。
山をはじめてまっさきに憧れたのがコレ。
荘厳な夕焼けを見送り、満天の星空を眺めながら、わずかな一人分の空間で過ごす時間。きっと感動に満ちたすばらしい経験になるんだろうと、テントを購入したが、はやる気持ちとは裏腹に、5年以上も使うことなくしまい込んだままになってしまった。
というのも、東北の山中はノーマルルートを登る限りはほぼ日帰りコース。しかもテント泊はほとんど禁止。テント場が記された山はいくつかあるものの、うっそうとした森の中で、しかもマイナーな場所だったりするので、何やら怖そう。
やがて、初テント泊の機会は思わぬ展開で訪れた。
秋田駒ヶ岳周辺を縦走していたとき、夕暮れも迫った頃、同行していた人が肉離れを起こして動けなくなってしまった。この日はこの先の大白森の山小屋まで行く予定だったが、足は回復しそうになく仕方なくビバーグすることになった。
ビバーグと言ってもテントがあるので、よく本で紹介されているようなイメージにはほど遠い。登山道が少し広くなっているところへ無理矢理テントを張るため、窮屈ではあったが、初テント泊である。
周りは森林限界は超えておらず、森の中。ブナの梢が空を遮り、夕暮れや星空は期待できそうにない。地面には木の根がごつごつとうねっており、これを避けるような良い設営場所は見当たらなかったので、ここはガマン。
簡単に夕食を済ませるとまもなく日が暮れた。
ここからが山のもうひとつの顔のはじまりとは、この時点では想像もしていない。
木々の輪郭もおぼろに黄昏れる頃、すぐ数メートル下の薮から「クォーーン」と動物の鳴き声がこだました。続いてガサガサと薮をかき分けて進む音。
野生動物の時間のはじまりだった。
ふと目が覚めて時計を見ると1時すぎだった。
結構、眠れるものだなと再び目を閉じるが、すでにもう眠気はない。
じっとしてシュラフに包まっていると、薄いテントの一枚外では、バキバキ、という足音やガサガサという薮をかき分ける音がしょっちゅう往来する。昼よりも夜のほうが山は活気に満ちているのには驚いた。
やがて、ひときわ大きなバキバキという小枝が折れる音と、薮を漕ぐ音が数メートル先にやってきた。さすがに緊張して息をひそめていると、低く唸り声が聞こえてくる。
それは、テリトリー内に現れた不振な設営物に警戒している熊に他ならないことは、確かめるまでもない。
熊は唸り続けていたものの、テントの外には煌煌とランタンが光を放っており、これが怖いのか、テントを警戒しているのか、それ以上こちらへ近づく気配はなかった。
枕元のウエストバックに熊鈴があったので、わざと鳴らしてみたが今更、立ち去らせるほどの効果はなく、
熊さんは時々ガサガサと歩き回ってはいるものの、唸り声は結局止まず、こちらも時々うとうとしながらも、熟睡もできずに夜明けを待つこととなった。
4時前。
ふいに小鳥がさえずりはじめた。
熊はいつのまにか立ち去っていた。
あんなににぎやかだった野生動物たちの気配はきれいになくなり、夜の陰がかすんでくるに従い、小鳥のさえずりが空を満たしはじめ、私もテントを這い出て、ひんやりとした山の朝を出迎えた。
昔話で、夜明けとともに化け物たちが無力化する話や、幽霊が立ち去る話がよくあるが、物語のこうした結末は、自然とともに暮らしていた昔の人々にとってはとても納得のいくことだったのだろう。
宮崎駿監督の「もののけ姫」でも、森の神様である「しし神」が昼と夜で全く違う顔を持つという設定も、今回のテント泊後、これまでとは違う次元でとても納得できる設定だと思った。
私のテントデビューは、山のもうひとつの世界を知り、闇が恐ろしかった時代の先人たちの残した物語を、彼らと同じ目線で理解できるよい機会となったと思う。