2019年11月28日 御嶽山の収穫

2019年11月28日 御嶽山の収穫

タイトルに収穫と書いたが
キノコの話ではないのだ。

地元の山を歩いていると
特に秋田県南の山では
坂上田村麻呂や、後三年合戦、
前九年合戦の跡にさまざまな形で
出会うことになる。

さまざまな形というのは
遺跡であることよりもその地を示す
名称だけであることが多い。
千年近くも昔のことでもあり
物理的な痕跡が残るのは稀なのだろう。
一方で、地名として記憶される歴史の、
その地方に与えたインパクトの強さを
千年近い時間の長さとともに思わずにはいられない。

田村麻呂にせよ、前九年合戦、後三年合戦に
せよ、中央勢力と蝦夷と呼ばれた東北の
勢力との戦いである。
いまでこそ、日本と一括りとなっているが
当時にしてみたら、
侵略にも近いものもあったと思う。

秋田県南の山々に、こうした痕跡が
残る理由は、峠の存在にあるのだと思う。
秋田に入るためには、侵攻にしても
逃亡にしても峠を越えなければならず、
交通の要所でもあった峠には
そこを越えてくる人々の多様な
想いがこもる場でもあったことだろう。

神室山や真昼山地、奥羽山脈、
地元の山々を登るとこうした痕跡に
少なからず出会うこととなるのだ。

そして今回の御嶽山。
この山は秋田最古と言われる神社があり、
山麓には秋田で初めて設置された、
三十三観音巡礼の一番札所がある。

これらの信仰に深く関わるのが
清原一族だ。この一族の話なしには語れない。
清原一族と聞いてもおそらく地元秋田でも
ピンとくる人も少ないと思う。

奥州藤原三代の礎を作った人が
この一族から出た清原清衡だと言えば
ようやくなるほどと頷く人もいるかと思う。

この清原一族、前九年合戦で
陸奥国の覇者安倍一族を滅亡に追い込み
のちは東北のほとんどが勢力範囲となるほどの
大きな力のあった豪族である。

後三年合戦といえば、源義家のほうが
ヒーロー的に扱われているものの
前九年合戦で
もともと安倍一族を討ちたかったのは
中央政権のほうであり、
しかし軍事力に劣るため清原一族に
援軍を頼み、ようやく討つことができたのだ。

それほどの力を持つ一族が
ここ横手に拠点を持ち、
中央と拮抗するほどの存在であったのだ。
学校で習う機会もないのが、地元としては
勿体無い気がしてならない。

学校で習う秋田といえば
戦後の出稼ぎの暗いイメージやどこか
文明の遅れたイメージしかなかったから
地元愛なんて言われても・・・
我々の世代はたぶんそんな印象を
生まれ育った故郷に持つほかなかった。

それがどうだろう。
果敢にも時代のうねりと戦った歴史が
こうも色濃く山には残っているのだ。

御嶽山をガイドするためにと
一つ資料を読めば、ひとつ謎が出て
また資料を探し、さらにまた資料をと
ここ3週間ほど清原一族や横手の
成り立ちにかなりのめり込んでしまった。

後三年合戦は年々解釈が進んでいくので
お客様へ資料を渡す前にと、
市役所の方にお願いして作った資料を
確認していただいた。

とても早く対応していただきまして、
資料もたくさんいただき、
謎に思えていた箇所も解明できました!
本当にありがとうございます。

山を歩いていて、たまたま見つけるこうした
気になる景色や言葉など、
そのときは、それが何を意味するのかさえ
わからずに、ただ気になって記憶に
とどめておくことがあります。

そうした断片がある程度集まりますと
バラバラだったそれらが一気に
繋がって、一枚の絵のごとく
目の前に広がる瞬間があるものです。

歴史に疎いわたしではありますが
意味も人の名前もよくわからないままに
記憶の中に放り込んでおくと
何か新しい情報が入った瞬間に
その古い記憶がむくむくと蘇って
急に理解できる瞬間があるものです。

じぶんの頭の中だけで起こる
さながら静かな化学反応ですが
ガラクタのような数々の断片が急に
躍動し始めて一枚の絵になってゆく
瞬間というのは、とても
壮大で感動的です。

山に登る楽しみはいろいろありますが
地味ながらも、こうした
歴史との出逢いも東北の山ならではの
東北に住む私たちならではの
楽しみだなとつくづく思った次第です。

まあ、ガイドのための知識とはいえ
お客さんから聞かれたときの引き出しのひとつ。
ガイドの大きなザックの荷物の
ほとんどが万が一のときの備えであるのと
同様に、こうした知識も
聞かれたときの備えだったりします。

ただ、今回はお客さんにお配りする資料に
勝手ながら織り込ませてもらいました。

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